ずっと人間賛歌を~僕と銀杏と空気階段単独ライブannaに寄せて~

このヒリヒリとした胸の痛みには覚えがある。

青山一丁目の駅に向かって足早に歩きながら記憶を手繰り寄せていた。

そして思い当たったのは、昨年の秋、数年ぶりにあの人の作った曲を聞いた時だった。

自分の青春時代を象徴するといっても過言ではない。何度も友達と歌ったし、少しスラングめいた歌詞に顔を見合わせて笑い合ったその人の曲を、何年も聞いていなかったし、彼が今どこでどんな活動をしているのかほとんど知らなかった。ランダム再生で流れてきた一節目でその人の曲だとわかり身構える。が、どうだろうか。十代の時とは全く違った胸に押し寄せる気持ちが、痛くて痛くてたまらなかった。

 

27歳、そう私は今27歳だ。

人間どこから大人になってしまうのか。大人に「なる」のは20歳だとしても、「なってしまう」境界線は27歳ではないかと思う。

私がそれを知ったのは20世紀少年の主人公のセリフだった。27歳のジンクス。天才的ミュージシャンはみんな悪魔に魂を売り渡して才能を手に入れた。だから27歳で悪魔との契約の時が来て死んでしまうのだという。それではあっさり28歳になってしまった自分は何なのか。ああなんだ、何の才能も手に入れていない平凡な人間だ。それを受け入れて大人になってしまうのではないか。

「天才だったらよかったんだけど」

そんなセリフの出てくる「27歳」は、若さとの決別、大人への妥協が滲んでいるように感じた。

 

それと対極的に映るのが「コインランドリー」のマキムラだった。

「負の感情で汚れてしまった心を綺麗にするためにお洗濯をしている」

「一点の曇りもなく生きていきたい」

そう言って洗濯機に潜り込む彼が、綺麗な心を求めた先の姿はまさに大人とは対極で、汚い心に抗うことは、すなわち大人になることに抗うことなのではないかと思った。

 

 

「よく言われるんだよね、お前よりも俺の方が銀杏BOYZだって。」

空気階段の踊り場にゲストで来た時*1に、峯田和伸は笑ってそう言っていたけれど、私にはそう言った人の気持ちがよくわかる。

いつからミネタ*2はこんなに柔らかな言葉を柔らかな声で歌うようになったのだろうか?

銀杏BOYZと言えばあの激しい衝動と、青春をどろどろに煮詰めたような感情の渦ではないのか。今聞いているこれは、自分の知っている銀杏BOYZなのか。今のミネタよりも、あの頃のままぐずぐずにくすぶっている自分の方が、よっぽど銀杏BOYZなのではないのか。そんな感情ではないかと思う。

「死ぬほど大好きで、死んでも切なくて」

「もしも君が死ぬならば僕も死ぬ」

「君のパパを殺したい」

「幸せそうな恋人たちを電動ノコギリでバラバラにしたい」

本当にぷつっと糸が切れたように死んでしまうのではないかというような熱量で、叫ぶように歌っていた人が、たった一人の銀杏BOYZになって

「生きたくってさ。生きたくってさ。」

と歌っているのだ。「あいどんわなだい」ぐらいまでだ、死にたくないと言っていたところまでは知っていたけれど、「生きているだけで輝いてみせる」と歌う彼を私は知らなかった。

冒頭で数年ぶりに聞いたあの人の作った曲、と言ったのは銀杏BOYZの「生きたい」である。私の知らないミネタが歌っているくせに、切なくて苦しくてたまらなく突き刺さった。

 

ミネタは変わったのだろうか?

私は、変わったけれど変わっていないと思っている。確かに紡ぐ言葉は、歌う声の圧のようなものは違うように感じる。けれど、ミネタが歌っているのはいつだってその時の自分の気持ちそのもので、その時そう感じたから歌にしている、に他ならないからだ。

 

そして気が付く。ミネタだって、いや、彼こそが、とっくに27歳を過ぎたミュージシャンであることに。

同じ回でのもぐらさんの言葉を思い返す。GOING STEADY時代の曲「DON'T TRUST OVER THIRTY」がベースとなった「大人全滅」、その最後に放たれる言葉が、大人を信じないと歌った当時の自分への答えではないか、と。

You Have Your Punk I Have Mine

27歳を過ぎたって、こんなに苦しんで生きることができる。

いや、27歳を過ぎたからこそ、歌にできることがたくさんある。

変わらず「誰かと付き合って、別れて傷ついて、歌を歌って、また好きになる」ことができる。それだけじゃない。「醜いものだろうと、見えにくいだろうと、生きているだけで輝いてみせる」と思うことができるようになる。

なんだ、大人、思ったより悪くないじゃん。しぶとく図太くこんなに長く生きてみたからこそ、感じることのできた喜びも痛みもきっとたくさんある。

  

以前テレビ番組*3で披露したコントについて、かたまりさんが「30歳になった自分のリアル。5年前、25歳の自分じゃできなかったと思う。」と言っていた。単独ライブannaもまさにそんな今現在の二人のリアルが詰め込まれていたように感じた。だから「生きたい」を聞いた時と同じ気持ちになったのだと思う。大人として生きていく、人生はこれからも汚れながら続いていくけれど、それって悪いことじゃないんだと、どちらからもそういうメッセージを感じ取ることができたから。

 

「14歳の俺はあんたにおかしくされてしまった。どれだけの人があんたの歌に救われてきたことか。」

そう言われたフルサワタロウはギターケースの埃を払う。

「怒りや悲しみは本当に汚れなのか。人間が抱えて生きていくもんじゃないのか。」

そう言われたマキムラは心のお洗濯を中断してラジオに耳を傾ける。

続いていく人生への、限りない賛歌だと思う。彼らが自分に投げかけられた、そんな言葉たちに出会えたのも、色々なことを投げ出したくなりながらも、生き続けていたからこそだから。

 

 もう一つ、今回の単独ライブの大きな軸が「ラジオ」であったと思う。

 

 

全てのメディアを介した関係性がそうであるにしても、ラジオというのは特に「勝手」なもののように思う。テレビ番組が何らかのテーマ性を持って構成される一方で、ラジオから聞こえてくる話はパーソナリティーの生活の切れ端のようなものが多い。今日もバイトで怒られた、家族とこんな会話をした、読んだ雑誌、好きな音楽、学生時代の思い出……時に懐かしむように、時に怒りをぶつけるように勝手にしゃべっている。

一方で我々リスナーというのも非常に勝手なものだ。画面と向き合う必要もなく、家事をしながら、近所を散歩しながら、旅行の帰りの車内で、他人の人生を聞いて声を出して笑う。ラジオあてに送らなくったっていいメールを送ったり、ある日ぱたりと送らなくなったりする。現にこうして自己満足のブログを書いているリスナーだっている。送ったメールだって、パーソナリティーの勝手で読まれたり読まれなかったりするし、笑われたり喜ばれたりすることもあれば思わぬ説教を食らうときもある。

それでも私達は何故かまたラジオを聞いている。パーソナリティーの生活を覗き見しているうちに、私達は彼らのことを勝手に知った気になる。知った気になって、一緒になって応援したり落ち込んだり、怒ったり笑ったり泣いたりする。彼らの生活が自分を構成する一部になるような感覚だ。

そして、それだけではないことに私は単独ライブの会場に行って気が付いた。コントの随所に散りばめられた、ラジオで話したエピソードのオマージュで会場中が笑っている。そうか、ここにいる人達はみんな、私と同じラジオを聞いている人たちだ。先述のようにラジオが「勝手」であるからこそ、同じものを聞いている私たちは少し秘密を共有しているような気持ちになる。どこで何をしているか、どんな人かなんて知りもしないけれど、私達はこっそり繋がっている。

 

「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」

「anna」の世界で、二人を繋ぐように何度も繰り返されるラジオからの言葉は、まさに私達にも向けられていたのかもしれない。いや、そう「勝手に」受け取りたい。そしてその上で「勝手に」言わせてほしい。

 

勝手に勇気もらって悪いかよ!

 

こんなにも勝手だからこそ、繋がることができる世界がある。もはやあなたたちの人生は私達の一部で、それを証明する言葉が「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」だと私達は知っている。だってあなたたちが爆笑問題のラジオを聞いて芸人を目指したことや、部屋にラジオしかなくて仕事終わりにずっとTBSラジオを聞いてたことを私達は知っているから。あなたたちだって、ラジオに勝手に勇気もらってきた側だと知っているんだ。

 

だから「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」は、「愛してるぜ、リスナー」という言葉だと勝手に受け取りたい。お前たちならこの言葉の真意がわかるよな、と、内緒話をしてもらっているのだと。

 

こちらこそ、いつも勇気をもらってます。愛してるぜ。

そしてこれからも勝手に勇気もらってやるからな!

 

今日で200回を迎える空気階段の踊り場が、これからも末永く続くように。

単独ライブをずっとやってもらえるように。

彼らと、彼らに関わるすべての人が幸せでありますようにと願って、結びの言葉としたい。

まだラジオまで時間あるから、銀杏聞いて待とうかな。

*1:空気階段の踊り場#183本編より

*2:空気階段のことはもぐらさん、かたまりさんと呼ぶくせに、ミネタはミネタと言ってしまう。許してほしい。

*3:ゴッドタン「女装ほろ苦選手権」(2021年2月6日)