読書感想文 黒い家/貴志祐介

その本を私に教えてくれたのは支社の販売スタッフのS部長だった。

 

「 I みたいな男が主人公で、とんでもないことに巻き込まれていくんだ」

 

生命保険会社の人間で知らない人はいないぐらいの有名な本らしい。発刊直後に起きた保険金詐欺事件と内容が酷似していたことで、その名はさらに知られることになったという。Iというのは契約事務担当の部長で、S部長より10近く若い、優しくて穏やかな人だった。

その日もいつものように、拠点に出ていないスタッフで連れ立って11時半にお昼を食べにいく。道路を挟んで支社の向かいにある居酒屋の昼メニューだったと思う。

 

大竹しのぶの気味の悪い足音と、血の匂いが今にもしてきそうで気持ち悪くなる」

 

映画化された時の女優の演技がそれはすさまじいものだったとか。そのずっと前からわかっていたことだけれど、そんなおどろおどろしい本を新卒2年目のいたいけな女子職員に、ましてやこんなお昼の時分に勧めてくるなんて、やっぱりS部長は変わった人だ。

 

それから3年、ようやくその本をこの巣ごもり時間を持て余し手に取ったタイミングは非常に絶妙だったと思う。主人公の若槻はやっと主任の役付きになったところ。入社後本社の運用部門に5年いて、支社の保全スタッフになって1年と少し。40半ばだったI部長よりむしろ自分に重なった。同じような年次、たくさんいる同期のうち一人は同じような異動がそろそろあってもおかしくないころだと思う。

 

幽霊や妖怪の力を借りずして角川「ホラー」の名を冠するだけあって、とにかく恐ろしかった。はじめから終わりまで鬱蒼とした臭気が立ち込めるようで、その臭いはどんどん血生臭さを増していく。しかもその数々の凄惨な事件の動機は、全く明らかにならない。敢えて言うなら、映画のキャッチコピーにもなった作中の一文「この人間には心がない」が唯一できる答えなのかもしれない。

 

ただS部長が面白い本だと話してくれた理由もわかった。保険会社に勤める、ということに関しての描写がとにかく細かくて正確だ。自社ビルの上の階にある支社と薄暗い非常階段、一件書類の不備と連絡のずさんさへの苛立ち、本社便支社便の使いまわされた封筒、スタッフの不穏な空気を察知して気配を消す事務のベテランさん、別の支社の外務員が退職して移管されてきた契約、新人さんの研修後の講習室にするお弁当の匂い。あまりにも身に覚えのあるものが多くて読み始めのころは思わず笑ってしまったほどだった。

 

作者は生命保険会社に8年勤務したあと作家になったそうだ。深く納得。

 

役員に名前を知られているほどの優績者が支社長に直接ではなく自分に電話してくるなんて何かがおかしい、なんて感覚他の職業の人に通じるんだろうか(笑)

 

某官庁に勤める知り合いが「シン・ゴジラ」の面白さを「官僚のリアルさ」と言っていたのを思い出したが、それに近いのかもしれない。

そこに書かれているのは紛れもない自分の日常、他の人には描写不可能だと思うほどに自分の日常なのに、そこにおぞましい非日常が入り込んでくる。まるでこれもお前のものだと言わんばかりに。

 

途中随所に出てくる心理学的な記述については知識がないので、対立する二つの考察を評価することはできないが、そこに至っても主人公が同様の立場をとってくる。社会の中で実務屋として生きているから、合理的に事実を説明できてしまう一般化に陥りやすいという指摘にもドキリとさせられる。

物語のなかに終始立ち込めている強烈な臭気と薄気味悪さは、確かに「サイコパス」と言ってしまえばそれまでかもしれない。ましてやそれを、自分たちの種が存続していく中の偶発的なバグとみなしてしまえば、黒い家は日常から遠ざかっていく。

しかし心理学者たちの分析がそれに揺さぶりをかけてくる。彼らの情性の欠如は、進化の過程で環境に適合した結果だとしたら。「相互扶助の精神」を自分たちの前過程にいた人類が生み出したものだとあざ笑う彼らが、「保険金は出るのか」と電話をかけてくる日が来ないと本当に言い切れるのか。

「自分の命でやる博打みたいなものだろう。」「確率論で考えれば損としか思えない。」そう言われたことが、この短い会社生活の中でだって何度もある。

それに会社の中だって、きれいごとでは回っていない。「これまで君はきっと真面目にまっすぐに生きてきたと思う。そんな君からしてみればどうしてそんなことが起きるかわからない、理解ができないことがたくさん起きる。でもそれでこの会社は回っているし、僕らはお給料をもらっている。」着任してすぐに支社長に言われた言葉を反芻する。「使命感」「理想の会社」そんなきれいな研修を受けた直後だったのだけれど(笑)

 

思えば、そんな理想と現実のはざまにある場所が舞台だからこそ、この血みどろの話が妙な生っぽさを持つのかもしれない。

ともかく、次か、その次かの異動で支社に行く同期がいたら餞別に渡してあげようと思う。縁を切られないことを祈りたい。

 

 

顧客の家に呼ばれ、子供の首吊り死体の発見者になってしまった保険会社社員・若槻は、顧客の不審な態度から独自の調査を始める。それが悪夢の始まりだった。第4回日本ホラー小説大賞受賞。