読書感想文 水の時計/初野晴

寮生がいるおかげで他の学校よりも少し長い夏休みが始まる前に、教室で配られる文庫フェアの冊子が好きだった。

集英社のナツイチ、新潮文庫の100冊、角川が一番多く買っている気がするのに「カドフェス」なんて名前がついているのは知らなかった。この本に出会ったのもその冊子の中だった。

ワイルドの「幸福の王子」を読んだのは小学校のとき。「冬のお話」とかそんな名前の、冬をテーマにした短編がたくさん入った本の中で一番印象に残っていた話だった(覚えているのはその話ともうひとつ、ふくろうと星のお姫様があったかい部屋でアイスクリームを作って食べる話が載っていた気がする)。記憶の中の物語と冊子に書かれたあらすじがすぐに繋がって、興味を持った。

 

おそらく中学生か高校生。主人公たちとほぼ同年代のときに確かに一度は読了したものの、その時の読後感ははっきり言ってすっきりしたものではなかったと記憶している。結局何だった?何が言いたい話だった?

現代医療の問題点か?いやでもそれならばもっと別のアプローチがあるはずだ。

ミステリーでもサスペンスでもないのに、なんとも言えない薄暗い結末。これで正しかったのか?

もやもやしたものを感じながら、それでも何か引っかかるところがあったから、上京含めて5回の引っ越しを処分されずに乗り越え、今に至るまで我が家の本棚にこの本が残ったのだと思う。

 

2度目の読了で印象的だったのは、まず、透き通るような文体だった。いわゆる暴走族の内部抗争が物語に噛んでいるので、バイオレンスな描写も出てくるが、それすらも主人公は本当に痛みや苦しみを感じているのだろうかと疑問に思うくらい透明な文章で綴られている。事実と考察だけが淡々と連ねられ、こちらも感情移入する暇がない。 

 

この物語に「救済」はあったのだろうか。読み終わったあと考えたことはそれだった。カトリック系の学校にいたくせに覚えているのは「善きサマリア人」ぐらいなので、宗教的な意味の言及は避け、どうしようもないつらさから何らかの形で解放された状態、そこから二度と落ちることはない状態ぐらいの意味で考えたい。

葉月は頑なだと思った。特殊な装置から発される、ひらがなだけの声は生きてもいないし死んでもいない自らの最後の意志をなんとしてでも遂げようとする。さながらワイルドの「幸福の王子」のように「自らの臓器を必要とする人に分け与えること」、それが葉月の最後の望みだということを主軸に物語は展開していく。

しかしそんなにも頑なであるにも関わらず、クライマックスに迫るにつれてこれが本当に彼女の望んでいたことなのだろうかという思いが強くなった。そして思い至ったのは、これは一見最後に一つ叶えてほしい望みに見えて、実は3つの願望が折り重なった結果なのではないかということだった。すなわち、葉月が「生きていたとき」と「死にゆくとき」と「生きることも死ぬことも叶わなくなったとき」それぞれに彼女が望んだことが、混ざり合い形を変えて「幸福の王子」の様相を呈することになるのだ。

一般的に「救済」というと死後のイメージが強い。そのとおり「死にゆくとき」と「生きることも死ぬことも叶わなくなったとき」の望みはそれぞれ、どうしようもないつらさから何らかの形で解放された状態、そこから二度と落ちることはない状態への渇望だと捉えることができた。一方で、彼女を苦しめていたのは「生」そのもので、それが「生きていたとき」の望みを持ち続けることでより苦しさを増しているように思えた。しかし主人公昴がどうしようもない現実に打ちのめされたとき、崩壊しかけの組織の中でただバイクで走ることにより生の実感を得ていたように、望むこと、苦しむことが生きているのか死んでいるのか誰にもわからない葉月の生の実感だったのかも知れない。

 

望みとは結局エゴなのかもしれない。それがいくら誰かのためを思ってのことだったとしても。二幕から四幕で葉月の臓器を受け取ることとなる人物の周りには様々な望みという名のエゴが渦巻いているように思った。さなえを懸命に看病する母親、昴の兄とその友人の記者、姿を消した森尾の妻。それぞれが誰かのためを思って自分を犠牲にするありかたを選んだばかりに、その誰かが苦しむやりきれなさが一貫して漂っていた。つまり、葉月にも、それを見守る芥、葉月の父、そして昴自身にもそれはあった。

 

後味がよいとは言わないけれど、独自の世界観からしか得られない胸の詰まりがあったように思う。淡々と語られる生と死の瀬戸際、自己犠牲とエゴの狭間が、「それでも二項対立で物を語るのか」と語りかけてくる。

 

 

 

医学的に脳死と判定されながら、月明かりの夜に限り、特殊な装置を使って言葉を話すことのできる少女・葉月。生きることも死ぬこともできない、残酷すぎる運命に囚われた彼女が望んだのは、自らの臓器を、移植を必要としている人々に分け与えることだった――。

透明感あふれる筆致で生と死の狭間を描いた、ファンタジックな寓話ミステリ。