ずっと人間賛歌を~僕と銀杏と空気階段単独ライブannaに寄せて~

このヒリヒリとした胸の痛みには覚えがある。

青山一丁目の駅に向かって足早に歩きながら記憶を手繰り寄せていた。

そして思い当たったのは、昨年の秋、数年ぶりにあの人の作った曲を聞いた時だった。

自分の青春時代を象徴するといっても過言ではない。何度も友達と歌ったし、少しスラングめいた歌詞に顔を見合わせて笑い合ったその人の曲を、何年も聞いていなかったし、彼が今どこでどんな活動をしているのかほとんど知らなかった。ランダム再生で流れてきた一節目でその人の曲だとわかり身構える。が、どうだろうか。十代の時とは全く違った胸に押し寄せる気持ちが、痛くて痛くてたまらなかった。

 

27歳、そう私は今27歳だ。

人間どこから大人になってしまうのか。大人に「なる」のは20歳だとしても、「なってしまう」境界線は27歳ではないかと思う。

私がそれを知ったのは20世紀少年の主人公のセリフだった。27歳のジンクス。天才的ミュージシャンはみんな悪魔に魂を売り渡して才能を手に入れた。だから27歳で悪魔との契約の時が来て死んでしまうのだという。それではあっさり28歳になってしまった自分は何なのか。ああなんだ、何の才能も手に入れていない平凡な人間だ。それを受け入れて大人になってしまうのではないか。

「天才だったらよかったんだけど」

そんなセリフの出てくる「27歳」は、若さとの決別、大人への妥協が滲んでいるように感じた。

 

それと対極的に映るのが「コインランドリー」のマキムラだった。

「負の感情で汚れてしまった心を綺麗にするためにお洗濯をしている」

「一点の曇りもなく生きていきたい」

そう言って洗濯機に潜り込む彼が、綺麗な心を求めた先の姿はまさに大人とは対極で、汚い心に抗うことは、すなわち大人になることに抗うことなのではないかと思った。

 

 

「よく言われるんだよね、お前よりも俺の方が銀杏BOYZだって。」

空気階段の踊り場にゲストで来た時*1に、峯田和伸は笑ってそう言っていたけれど、私にはそう言った人の気持ちがよくわかる。

いつからミネタ*2はこんなに柔らかな言葉を柔らかな声で歌うようになったのだろうか?

銀杏BOYZと言えばあの激しい衝動と、青春をどろどろに煮詰めたような感情の渦ではないのか。今聞いているこれは、自分の知っている銀杏BOYZなのか。今のミネタよりも、あの頃のままぐずぐずにくすぶっている自分の方が、よっぽど銀杏BOYZなのではないのか。そんな感情ではないかと思う。

「死ぬほど大好きで、死んでも切なくて」

「もしも君が死ぬならば僕も死ぬ」

「君のパパを殺したい」

「幸せそうな恋人たちを電動ノコギリでバラバラにしたい」

本当にぷつっと糸が切れたように死んでしまうのではないかというような熱量で、叫ぶように歌っていた人が、たった一人の銀杏BOYZになって

「生きたくってさ。生きたくってさ。」

と歌っているのだ。「あいどんわなだい」ぐらいまでだ、死にたくないと言っていたところまでは知っていたけれど、「生きているだけで輝いてみせる」と歌う彼を私は知らなかった。

冒頭で数年ぶりに聞いたあの人の作った曲、と言ったのは銀杏BOYZの「生きたい」である。私の知らないミネタが歌っているくせに、切なくて苦しくてたまらなく突き刺さった。

 

ミネタは変わったのだろうか?

私は、変わったけれど変わっていないと思っている。確かに紡ぐ言葉は、歌う声の圧のようなものは違うように感じる。けれど、ミネタが歌っているのはいつだってその時の自分の気持ちそのもので、その時そう感じたから歌にしている、に他ならないからだ。

 

そして気が付く。ミネタだって、いや、彼こそが、とっくに27歳を過ぎたミュージシャンであることに。

同じ回でのもぐらさんの言葉を思い返す。GOING STEADY時代の曲「DON'T TRUST OVER THIRTY」がベースとなった「大人全滅」、その最後に放たれる言葉が、大人を信じないと歌った当時の自分への答えではないか、と。

You Have Your Punk I Have Mine

27歳を過ぎたって、こんなに苦しんで生きることができる。

いや、27歳を過ぎたからこそ、歌にできることがたくさんある。

変わらず「誰かと付き合って、別れて傷ついて、歌を歌って、また好きになる」ことができる。それだけじゃない。「醜いものだろうと、見えにくいだろうと、生きているだけで輝いてみせる」と思うことができるようになる。

なんだ、大人、思ったより悪くないじゃん。しぶとく図太くこんなに長く生きてみたからこそ、感じることのできた喜びも痛みもきっとたくさんある。

  

以前テレビ番組*3で披露したコントについて、かたまりさんが「30歳になった自分のリアル。5年前、25歳の自分じゃできなかったと思う。」と言っていた。単独ライブannaもまさにそんな今現在の二人のリアルが詰め込まれていたように感じた。だから「生きたい」を聞いた時と同じ気持ちになったのだと思う。大人として生きていく、人生はこれからも汚れながら続いていくけれど、それって悪いことじゃないんだと、どちらからもそういうメッセージを感じ取ることができたから。

 

「14歳の俺はあんたにおかしくされてしまった。どれだけの人があんたの歌に救われてきたことか。」

そう言われたフルサワタロウはギターケースの埃を払う。

「怒りや悲しみは本当に汚れなのか。人間が抱えて生きていくもんじゃないのか。」

そう言われたマキムラは心のお洗濯を中断してラジオに耳を傾ける。

続いていく人生への、限りない賛歌だと思う。彼らが自分に投げかけられた、そんな言葉たちに出会えたのも、色々なことを投げ出したくなりながらも、生き続けていたからこそだから。

 

 もう一つ、今回の単独ライブの大きな軸が「ラジオ」であったと思う。

 

 

全てのメディアを介した関係性がそうであるにしても、ラジオというのは特に「勝手」なもののように思う。テレビ番組が何らかのテーマ性を持って構成される一方で、ラジオから聞こえてくる話はパーソナリティーの生活の切れ端のようなものが多い。今日もバイトで怒られた、家族とこんな会話をした、読んだ雑誌、好きな音楽、学生時代の思い出……時に懐かしむように、時に怒りをぶつけるように勝手にしゃべっている。

一方で我々リスナーというのも非常に勝手なものだ。画面と向き合う必要もなく、家事をしながら、近所を散歩しながら、旅行の帰りの車内で、他人の人生を聞いて声を出して笑う。ラジオあてに送らなくったっていいメールを送ったり、ある日ぱたりと送らなくなったりする。現にこうして自己満足のブログを書いているリスナーだっている。送ったメールだって、パーソナリティーの勝手で読まれたり読まれなかったりするし、笑われたり喜ばれたりすることもあれば思わぬ説教を食らうときもある。

それでも私達は何故かまたラジオを聞いている。パーソナリティーの生活を覗き見しているうちに、私達は彼らのことを勝手に知った気になる。知った気になって、一緒になって応援したり落ち込んだり、怒ったり笑ったり泣いたりする。彼らの生活が自分を構成する一部になるような感覚だ。

そして、それだけではないことに私は単独ライブの会場に行って気が付いた。コントの随所に散りばめられた、ラジオで話したエピソードのオマージュで会場中が笑っている。そうか、ここにいる人達はみんな、私と同じラジオを聞いている人たちだ。先述のようにラジオが「勝手」であるからこそ、同じものを聞いている私たちは少し秘密を共有しているような気持ちになる。どこで何をしているか、どんな人かなんて知りもしないけれど、私達はこっそり繋がっている。

 

「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」

「anna」の世界で、二人を繋ぐように何度も繰り返されるラジオからの言葉は、まさに私達にも向けられていたのかもしれない。いや、そう「勝手に」受け取りたい。そしてその上で「勝手に」言わせてほしい。

 

勝手に勇気もらって悪いかよ!

 

こんなにも勝手だからこそ、繋がることができる世界がある。もはやあなたたちの人生は私達の一部で、それを証明する言葉が「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」だと私達は知っている。だってあなたたちが爆笑問題のラジオを聞いて芸人を目指したことや、部屋にラジオしかなくて仕事終わりにずっとTBSラジオを聞いてたことを私達は知っているから。あなたたちだって、ラジオに勝手に勇気もらってきた側だと知っているんだ。

 

だから「この時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよ」は、「愛してるぜ、リスナー」という言葉だと勝手に受け取りたい。お前たちならこの言葉の真意がわかるよな、と、内緒話をしてもらっているのだと。

 

こちらこそ、いつも勇気をもらってます。愛してるぜ。

そしてこれからも勝手に勇気もらってやるからな!

 

今日で200回を迎える空気階段の踊り場が、これからも末永く続くように。

単独ライブをずっとやってもらえるように。

彼らと、彼らに関わるすべての人が幸せでありますようにと願って、結びの言葉としたい。

まだラジオまで時間あるから、銀杏聞いて待とうかな。

*1:空気階段の踊り場#183本編より

*2:空気階段のことはもぐらさん、かたまりさんと呼ぶくせに、ミネタはミネタと言ってしまう。許してほしい。

*3:ゴッドタン「女装ほろ苦選手権」(2021年2月6日)

読書感想文 日日是好日/森下典子

 

別のアカウントで、細々とオタクとしての想いを綴っている。

一口にオタクと言いつつも様々な感情で様々な子を応援しているが、その中の一人のお誕生日に書いたブログで「彼にこの本を紹介するなら。」という体で書いたことがある。

 

彼は少し前から読書をするようになったという話をよくしてくれるようになって(しかもそのきっかけは村上くん!)、「どんな本が好き?」と聞いてくれてたブログを見て、いつかこんな本がよかったよ、おすすめだよ、というお手紙を書けたらいいなと思っていた。

 

 

そんな訳で選んだ「日日是好日」は、森下典子さんが20歳のときから続けてきた「お茶」を通じて見えてきた世界の捉え方の変化が描かれたエッセイだ。

 

本を読むのは「役に立つ」から、ダンスも「必要だった」から、やると決めたお笑いポジションも「グループにいない」から、と彼は知れば知るほど合理主義で機能主義な人のようで、別に役に立つとも思えない、自分とは縁遠いお茶の世界の本なんて興味がないかもしれない。いや、たぶんない。そう思いつつも私がこの本を差し出すことにしたのは、何かに一意専心したことのある人であれば、それがお茶でなくともきっと何か感じることのある一冊だと思ったから、そして感じるところはきっと人それぞれ違っていて、それこそがその人を形成する大切な何かであるだろうと思ったから。

 

2019年の8月8日、私は東京ドームにいたものの、ただぼんやりと起きる現実を目の当たりにしていただけだったし(何ならデビューできた子たちはよかったねえというくらいしか思ってなかったはず)、SNSなどで目に触れる「その後のコンサートでみんなで決意を新たにできて前に向かうことができた」ということも経験していなければ、4月の大阪城ホールが初めての現場の予定だったから、まだちゃんとの現場にも入れていない(2020年10月の舞台が初の現場だ!!)。この1年すら、せいぜい雑誌の記事を読むくらいの知識しかない。配信ライブで彼が流した涙の理由もきっと1%も理解はできていない。それにそもそも、掛け持ちのオタクごときが持っている感情なんて本当にちっぽけなものだと思う。

だから本当にこんなことを書くのはおこがましいのだけれど、彼や彼のグループには「一意専心」という言葉がすごく似合う、と思っている。動画や配信から感じただけのことでどこまで言っていいのかわからないけれど、明確な強みを持ってそれを他を寄せ付けないところまで高めている。もちろん途方もない練習量をこなしていることは前提として、きっとこれは練習で体得できることの先にある「心を入れた」ことで完成する何かなのではないかと感じた。だからきっと、何か私では到達しえないような気づきが、本の中にあるのではないかなと思っている。

 

お茶は何年やっても正解がわからない、疑問を解決する術も示されていない、自分よりずっと向いていると思う人がたくさんいて、時に自分の人生にとってどれほどの価値があるものかと問いたくなって、いっそやめてしまう方が楽かも知れないと思うけれど、しぶとく続けているうちにある日ふっと視界が開けるときがある、そんなものだそうだ。

 

これまでの人生のうち決して短くはないアイドル活動の中で、そういう気持ちになることがあったのかどうか私にはわからない(そういうところは見せずにいてくれるような気もするし)。が、何かに集中して心をこめることを続けるほど、そういった感情に近づくことが増えるのは自然のことではないかと思う。

一方で、そうしたものだからこそ、それそのものとして機能するというよりも、自分の人生の様々な局面に寄り添い、無数の気づきを産んでくれるものになるんだとか。茶室では得体の知れないままもやもやと抱えていた感情が、生活の中でふと「こういうことだったのか!」と腹落ちすることがあって、それが日々の中にある喜びや尊さを掬い取る助けになるんだそう。それによって、毎日が素晴らしい日だと思える、それが「日日是好日」だと言う。もともとは禅の教えの中から生まれた言葉らしく、何かにひたすらに集中するという意味で、彼の日々の活動とも共通しているのかもしれない。

 

話は少し変わって、彼のブログを読み始めたとき、私は毎月首をかしげていた。すごくすごく不思議な文章を書く人だと思った。色んな話をしてくれるけれど、どこか核心に迫ることには触れられないような気がしていて、言葉を選ばない言い方をすると「この人は何が言いたかったの?」と思ったりもした。

何を言いたいのか掴みかねながらも、過去の残っている記事にさかのぼって順番に読み込んで、その中で気が付いたのは彼の優しさは何一つ押し付けることがないところにあるのではないか、ということ。だから本当に言いたいことが(少なくとも私には)汲み取りづらくて、「まあ~なんだけどね!」と煙に巻くのをもどかしく感じていたけれど、それもきっとちょっとした自虐や冗談に悲しい気持ちになってしまう人を置き去りにしないためなのかな、と。

たぶん後輩に何かを教えたり相談に乗ったりするときもそうなんじゃないかと勝手に想像している。配信ライブでバックについてくれた子たちとの関係性はすごく素敵だった。「後輩たちが何かを掴むことができたら」という彼の気持ちはきっとたくさん伝わっていて、ただきっとその気持ちを強く押し付けることはせずに「少し頑張ればできるようになること」をたくさん教えてあげたんだということが強く伝わってきた。その「形」の中には、一意専心することでいつか後輩自身のオリジナルの「魂」のようなものがこもるんじゃないかと、本当に本当に勝手ながら思っている。

 

はじめの方に、「彼は知れば知るほど合理主義で機能主義な人だと思う」と書いた。自分自身で必要なものや役に立つものを選び取ることができる賢明さはすごく素敵だと思う一方で、少しだけ大丈夫かな?しんどくないかな?と思ってしまう時がある。その目線はきっと誰よりも自分自身に対して厳しく向けられるものだと思うから。だけど、きっと彼が意識していないような(と思うことは傲慢かもしれないけれど)無意識の表情や行動に私達ははっとさせられるし、ただただ優しくある姿に自分も優しくあろうと気付かされるときがたくさんある。いや、きっと優しいのも、優しくあることが最も合理的だからなのかもしれないけれど、その合理性を超えたこちらの心を温かくする力があると思っている。戸惑ったり、ちょっとすべって落ち込んだり、驚くほど饒舌に構成や振付について話をしてくれたり、そういう今をありのままかつ全力で生きている姿に笑顔をもらったり、少しうるっときたり。

私自身はこれと言って何かに心を注いだ経験なんてほとんどないけれど、こうやって掴みどころがなくて、それでも素敵だと思える彼を、言葉で表すことができたのが、一つの「お茶」のようなものと向き合う体験だったのかもしれない。本当にありがとう。

 

 

 

お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。雨が匂う、雨の一粒一粒が聴こえる……季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。

たぶん最初に書いておくべきだった

それでも書いていて気が付いたことだから仕方がない。

 

文体とは、あくまで人柄だ。ユーモアのないひとにユーモラスな文など書けるはずもなく、大まかな性格の人に神経質な文は書けない。文章技術より、自己発見のほうが先である。

 

父の三兄弟のうち誰が読んだのか、はたまた祖父のものかはわからなかったが、祖父の家の本棚にあった星新一の文庫本はあらかた読んだと思うし、自分でも何冊か買って読んでいた(とんでもない分厚さの愛蔵版は、図書館の貸し出し期限中に読み切ることができず挫折したが)。

そういう風に愛着のある作家の言葉に従って考えるならば、どのような文章を書きたいかとは、どのような人でありたいかでもあると考えたい。というのは、これから書くことが「これが自分の人柄だ!」というにはおこがましいように思うので、こうありたいというものだと受け取ってもらえたらという希望を含んでもいる。

 

「先生」の言葉で印象に残っているとか、自分を方向づけたとか言えるものが3つある。親しい人には何度も話したことがあるから、またその話かと思われるかもしれない。高校の生物の先生と、塾の数学の先生の話はまたの機会にして、今回は中学の国語の先生の話をしたい。

 

中3の国語の先生(本当は当時呼び捨てで読んでいたけれど、ちゃんと先生と呼ぶ)は、とにかく正解のわからない授業をする先生だった。魯迅の「故郷」なんて特にすさまじかった記憶がある。

「ここにこのように書いてある、こっちにはこういう風に書いてある。つまりどういうことかわかるだろう?あとは自分で考えてみるんだ。」

みたいなところで授業が終わって、結局よくわからないまま試験に臨み散々なことになったのは一度や二度ではない。

それでも先生に言われたことが残っているのは(別にその後の高校の国語の先生とウマが合わなかったからではなく)、ただ単にその1回だけ先生に褒められた(と思う、たぶん)からだと思う。

 

その日の授業は確か、いくつかの俳句の中から一つを選んで鑑賞文を書いてくるという課題が出ていて、その中で先生が気になったものをピックアップし、授業内でコメントするというものだった。

自分が何の句を選んだか記憶が定かでないが、とにかく桜のことを詠んだ句だった。

その鑑賞文の結びに書いた内容に先生は言及した。

 

桜はその花を咲かせる時、樹皮の裏までピンク色になるのだという。全身をピンク色に染めてゆき、最後に花に到達するのだ。花が咲くのは一瞬のことだが、その何より大切な一瞬のために全身全霊をかけている。命とはその瞬間のためにあるのかもしれない。

 

そんなようなことを、おそらくもっと稚拙な文章で書いた。先生のコメントはこうだった。

「これを読んで思い出すことのある者はいるか。」

続けて黒板に書かれたのは

言葉の力

どきりとした。「言葉の力」というのは中学二年生の国語の教科書に出てくる題材だ。詩人であり評論家の大岡信さんの文章で、非常に美しい言葉で書かれているのでぜひ読み直して(私と同じ教科書を使っていれば一度は読んでいるはずなので)ほしいのだが、敢えて不遜にも概要を書くとすればこんなところだ。

 

染織家の方に話を聞く機会があったとき、なんとも美しい桜色の織物をみせてもらった。何から取り出した色かと尋ねると桜からだと答えがあったので、てっきり桜の花びらを煮詰めて出したのかと思ったがそうではない。実際には桜の樹皮から取りだした色だという。桜の花が咲く直前の季節に樹皮から取れる色なのだと。桜はその全身で懸命にピンクに色づいており、普段私たちの目に触れる桜の花びらはそのほんの先端に過ぎなかったのだと気付き、非常な感銘を覚えた。

 

まさしく私の鑑賞文はこの「言葉の力」から着想を得て書いたものだった。よりによって国語の教科書の内容を自らの知識のように書く浅はかさをとがめられるのではないか。中学生の私は冷や汗をかきながらできるだけ小さくなって座っていたが、概要を話し終えた先生から次に出てきた言葉は予想外のものだった。

「この文章は、ここにいる全員が読んだことがある。だが、それをこの課題で自分の文章の中に入れてきた者は他になかった。触れたものを自分の中で噛み砕き、自分の言葉に昇華し、使っていく。これが学ぶということだ。」

あっけに取られて、どうやら悪く言われているわけではないらしいと理解するのに少し時間がかかった。返ってきた鑑賞文のプリントには「折口信夫」とだけ書かれていて、

「桜について書いた文章がある。読んでみるといい。」と言われた。

 

もう一つ、先生の授業で印象的だったものがある。

地元愛媛県には俳句甲子園なるものがあり、野球の方の優勝校が決まった頃に全国の高校生が松山に集まる。一つのお題について句を詠み、お互いのそれについてディベートを行う。句の出来ばえとディベートの内容をもって審査員が勝敗を決める。確かこんなルールだったと思う。

夏休み明け、おもむろに黒板に書かれたのはその年熊本信愛女学院高校が詠んだ一句だった。

 

夏草や コペルニクスの 大欠伸

 

先生によると、対戦校であった愛光高校つまり私の先輩は、ディベートでこのように指摘した。

「なぜ、夏草の上で大欠伸をしているのはコペルニクスなのか。同じ地動説の天文学者ならガリレオガリレイでもよいのではないか。」

この問いに熊本信愛女学院はうまく切り返せず、結局愛光高校が勝利した。

 

「しかし!」

 

バンバンとチョークで黒板を連打する音に意識が引き戻された。

 

「これは絶対にコペルニクスでないといけない。」

「愛光は幸運だった。もし熊本信愛がこの質問に答えられていたら、それはすなわち自分たちの考察の甘さを晒すことになり、負けていただろう。」

 

まあそれを答えられないのであれば、教師が考えた句なのかもしれないが、とかなんとかぶつぶつ言ったあとに先生は続けた(母校、そして相手校の先輩方の名誉のために、あくまでも先生の考察であることは再度言っておきたい)。

 

「なぜガリレオガリレイではいけないのか。それはガリレオコペルニクスには決定的な違いがあるからだ。」

 

先生によるとこういうことらしかった(これ以降は先生の話を私が記憶しているママとし、真偽や学説との整合は問わないこととする)。

 

ガリレオコペルニクスも同じ地動説を提唱した天文学者だ。

この句を単に夏草の上に寝転び星を見上げる天文学者の描写と捉えるのであれば、どちらでもよいように思われるかもしれない。

しかしこの句は「大欠伸」と続いている。

両者の違いは、教会が天動説を唱えた時代にどのように行動したかだ。

ガリレオの有名な言葉「それでも地球は動く」は、彼が地動説を唱えたことで異端尋問にかけられたあとに発したとされている。

一方コペルニクスは地動説の再発見をしながら生涯それを公にすることはなく、その学説は彼の死後ようやく明るみに出た。

両者の違いはまさしく、偉大な自らの発見を、その時代の荒波の中で表に出す決断をしたか否かだ。

 

君たちならどうするだろうか。世界をひっくり返すような自らの発見の偉大さに気が付いたとき、たとえ孤立無援になったとしても正しさを主張し続けることができるか、それとも後の時代へ希望を託し波に身を任せて生きることを選ぶか。

 

そこでこの句を見てほしい。

 

自分の説が正しければ、見上げる星空は自らの周りを回っているのではない。

その説を唱えることは、自分がそれをどんなに正しいと信じていても、自らの人生を脅かすことである。

そんな複雑な思いを抱かせる夏の星空を見て、それでもなお大欠伸ができるのは彼らの生涯を比較すると、従容として現実を受け止め生きたコペルニクスだけだろう。

 

 

長々と書いてしまったが、つまるところ私はそういう文章を書きたいのだと思う。

桜の話もコペルニクスの話も言うところは同じだと思っている。世界史の勉強を多少なりともしていれば、穴あき問題に入るのがコペルニクスガリレオガリレイであるかを選ぶは難しいことではない。しかし、その生涯に思いを馳せ、自らの気持ちや考えの表現に彼らを落とし込むのは、もっと誠実で実直な向き合いと、自分の中の点と点を線でつなぐための慎重な記憶の整理が必要だと思う。

 

オリジナリティ溢れる発想や、ひらめきは残念ながら持っていない。それでもこれまでせっせと集めてきた記憶からエッセンスを取り出す作業の中には、自分だけの何かが1滴でも混ざっていると思いたい。

本を読むとそれがはっきりするような気がする。何を感じるかは、何を思い出すかに直結していて、そのままでは霧散してしまう感情を集めるのは、冷たい液体をコップに入れると空気中の水分がしずくになって付着するようなものかもしれない。

 これまで感じてきたこと経験してきたことの記憶をコップにできるだけたくさん詰めて、それを読後の感情の中で振り回す。くっついてきた水滴をまたコップに貯めて、次の湿原へ。その営みのために、少しずつ感じたことを書き留めておくことにした。

 

読書感想文 ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ/滝本竜彦

読んだ順番もあって、「水の時計」ととにかく対照的に映った。

どちらも舞台は凍てつく冬、主人公はまっとうとはいいがたい17歳。けれども「水の時計」が体温を奪うような透明さだとしたら、この作品は血が沸いてしまうほど燻ぶった何かの上げる煙のようだった。

この本との出会い、そして再会も「水の時計」と似ている。

中学生か高校生の時に手に取って、その時はなんだかなあという読後感だったけれど、なんとなく本棚に居座り続けてくれたおかげでもう一度読むことができた。

 

同じ作者の本で最初に手に取ったのは「超人計画」。エッセイとも小説ともつかない、ルサンチマンからの解放を訴え、御託を並べた挙句気持ちが軽くなるキノコ的なものに手を染めるとにかく奇妙な本、という記憶はある(どこに行ったか今は手元にない)。それを読んで、「よくわからんなあ」と思ったうえで「NHKにようこそ!」そしてこの「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」を作者買いしていた当時の自分に首を傾げたくなるが、たぶんそういうお年頃だったんだと思う。

 

そして読んでいると、そういうお年頃のとき聞いていた音楽が耳に流れ込んでくるような気持ちになった。夜中竹やぶで訳もなく暴れまわり血みどろになった、というような話を「恋と退屈」で読んだような気がする。そうそう、「恋と退屈」を書いた峯田和伸もこの本の作者や主人公と同じように雪国で青春時代を過ごしたのだった。

 

最近の若者は怒らないのだと、主人公の担任が嘆く。どこか冷笑的で何を考えているのかわからないと。

つまらない大人のことを馬鹿にしながら、自分は何者でありどう生きていくのか、という焦りに駆られる若者の中にはきっと抱えきれないほどの激情がある。自分もあんな風につまらない大人になるのか、いやそんなはずはないと思うが故に教師に反抗する人がいて、ギターを手に取る人がいて、夜道をバイクでひた走る人がいる。主人公が「美少女戦士」について行ったのも、そんな感情の噴出の一つの形ではないかと思う。自分の日常を変えてくれる存在、不意に現れたイレギュラー、もしかしたら自分は「非日常」側の人間になれるのではないか。

 

一方でその「美少女戦士」こと絵理がチェーンソー男と戦う理由は、「あいつを倒さないと私に幸せは訪れない」。明確な根拠はないが、ひたすらにそう確信しているから今日も人気のない公園や路地裏で、チェーンソー男が現れるのをじっと待っている。一見不可解な絵理の動機は「生の実感」ではないかと思った。おそらく生きていて一番の悲しみを味わった絵理が、そこから先生きていく中で最も強いベクトルの感情は戦っているときに思い出す悲しみ、苦しみで、それこそが最も自分が「生きていること」を感じるエネルギーではないか。その証拠に主人公の目を通して描かれる彼女とチェーンソー男との戦いはどこか一辺倒で、例えば強力な武器を手に入れたり新しい必殺技を習得したりはしない。小さいナイフで今日も男の胸を突き刺すまでしか戦わないのだ。こいつを倒せば幸せが訪れるという希望にではなく、また今日も倒すことができなかったという絶望に「自分の生」を感じている。

 

「一方で」と言ったが、「何者かでありたい」と「生の実感を得たい」というのは類似した感情かもしれない。ただ漫然と日々を過ごすだけではだめなのだ。他の誰かがなぞることのできる生活を生きるのは、もはや生きてはいない。どんな悲しみに遭遇しても、それが一生続くことはなくいずれは幸せがやってくる、などといった展開を受け入れることは陳腐でありふれた物語に自分の人生を落とし込んでしまうことになる。誰もがより幸せになろうと生きる大人の世界を目の前にして、そうやって唯一無二の悲しみ、自分だけの苦しみ、オリジナルの絶望の中にいてこそ自分は自分として生きている理由がある、自分はオンリーワンになる、といったところだろうか。

 

終盤能登に向かって、空に向かって主人公は叫ぶ。

能登はまさしく陽介の「何者かでありたい」という欲求と、絵理の「生の実感」への希求の両方を実現させた人物ではないか。生の実感が最も強い瞬間はすなわち死の瞬間なのかもしれない。若くして死ぬというイレギュラーはまぎれもなく自分を特別な存在に仕立てあげる。ありふれたつまらない大人の世界に迎合することを拒む最強の手札は、万引きをすることでも、パソコンと向き合って打ち込みの音楽を作ることでも、チェーンソー男と戦うことでもなく、死んでしまうことだ。そんなこと実現できないから、みんな他の手段に手を出すのだが、能登は難なくやってのけてしまった。

 

それでも、主人公は、自分や絵理が望んでもできなかった究極の答えをだした能登に向かって叫ぶ。

「カラフル」を読んだ時にも同じようなことを思ったが、世界は0か1かの二つにくっきりは分かれていないのだ。ここからが大人の世界、というものは存在していなくて、完全な希望も完全な絶望もなくて、曖昧な境界をかき分けることが生きてゆくことだと、気づくのには時間がかかる。だから気づくまで生きていなくてはいけない。

 

 衝動的で、短絡的で、すぐに何かに舞い上がって絶望する。読んでいる間ずっと頭の中で銀杏BOYZが流れているようだった。

十七歳、トラッシュ

漂流教室も合っている

今の自分の視点からすればなんとなく僕たちは大人になるんだ、もいいかもしれない

色々考えた結果、NO FUTURE NO CRYかな、と思った。

 

死に急ぐのではなく生き急ぐのさ 傷だらけで恥をさらしても生きるのさ

俺は俺の悲しみを歌う 俺の悲しみをここに見つけるために

NO FUTURE NO CRY…… 未来はないけど泣いちゃだめさ

 

 

 DOORや君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命を貸し借りしていた頃の友達と、この気持ちを分かち合ってみたい。

 

 

 

「ごめんなさい。やっぱり私はあいつと戦います」

平凡な高校生・山本陽介の前に現れたセーラー服の美少女・雪崎絵理。彼女が夜な夜な戦うのは、チェーンソーを振り回す不死身の男。何のために戦っているのかわからない。が、とにかく奴を倒さなければ世界に希望はない。目的のない青春の日々を”チェーンソー男”との闘いに消費していく陽介と絵理。日常と非日常の狭間の中、次第に距離が近づきつつあった二人に迫る、別れ、そして最終決戦。次世代文学の旗手・滝本竜彦のデビュー作、待望の文庫化。

 

 

 

読書感想文 水の時計/初野晴

寮生がいるおかげで他の学校よりも少し長い夏休みが始まる前に、教室で配られる文庫フェアの冊子が好きだった。

集英社のナツイチ、新潮文庫の100冊、角川が一番多く買っている気がするのに「カドフェス」なんて名前がついているのは知らなかった。この本に出会ったのもその冊子の中だった。

ワイルドの「幸福の王子」を読んだのは小学校のとき。「冬のお話」とかそんな名前の、冬をテーマにした短編がたくさん入った本の中で一番印象に残っていた話だった(覚えているのはその話ともうひとつ、ふくろうと星のお姫様があったかい部屋でアイスクリームを作って食べる話が載っていた気がする)。記憶の中の物語と冊子に書かれたあらすじがすぐに繋がって、興味を持った。

 

おそらく中学生か高校生。主人公たちとほぼ同年代のときに確かに一度は読了したものの、その時の読後感ははっきり言ってすっきりしたものではなかったと記憶している。結局何だった?何が言いたい話だった?

現代医療の問題点か?いやでもそれならばもっと別のアプローチがあるはずだ。

ミステリーでもサスペンスでもないのに、なんとも言えない薄暗い結末。これで正しかったのか?

もやもやしたものを感じながら、それでも何か引っかかるところがあったから、上京含めて5回の引っ越しを処分されずに乗り越え、今に至るまで我が家の本棚にこの本が残ったのだと思う。

 

2度目の読了で印象的だったのは、まず、透き通るような文体だった。いわゆる暴走族の内部抗争が物語に噛んでいるので、バイオレンスな描写も出てくるが、それすらも主人公は本当に痛みや苦しみを感じているのだろうかと疑問に思うくらい透明な文章で綴られている。事実と考察だけが淡々と連ねられ、こちらも感情移入する暇がない。 

 

この物語に「救済」はあったのだろうか。読み終わったあと考えたことはそれだった。カトリック系の学校にいたくせに覚えているのは「善きサマリア人」ぐらいなので、宗教的な意味の言及は避け、どうしようもないつらさから何らかの形で解放された状態、そこから二度と落ちることはない状態ぐらいの意味で考えたい。

葉月は頑なだと思った。特殊な装置から発される、ひらがなだけの声は生きてもいないし死んでもいない自らの最後の意志をなんとしてでも遂げようとする。さながらワイルドの「幸福の王子」のように「自らの臓器を必要とする人に分け与えること」、それが葉月の最後の望みだということを主軸に物語は展開していく。

しかしそんなにも頑なであるにも関わらず、クライマックスに迫るにつれてこれが本当に彼女の望んでいたことなのだろうかという思いが強くなった。そして思い至ったのは、これは一見最後に一つ叶えてほしい望みに見えて、実は3つの願望が折り重なった結果なのではないかということだった。すなわち、葉月が「生きていたとき」と「死にゆくとき」と「生きることも死ぬことも叶わなくなったとき」それぞれに彼女が望んだことが、混ざり合い形を変えて「幸福の王子」の様相を呈することになるのだ。

一般的に「救済」というと死後のイメージが強い。そのとおり「死にゆくとき」と「生きることも死ぬことも叶わなくなったとき」の望みはそれぞれ、どうしようもないつらさから何らかの形で解放された状態、そこから二度と落ちることはない状態への渇望だと捉えることができた。一方で、彼女を苦しめていたのは「生」そのもので、それが「生きていたとき」の望みを持ち続けることでより苦しさを増しているように思えた。しかし主人公昴がどうしようもない現実に打ちのめされたとき、崩壊しかけの組織の中でただバイクで走ることにより生の実感を得ていたように、望むこと、苦しむことが生きているのか死んでいるのか誰にもわからない葉月の生の実感だったのかも知れない。

 

望みとは結局エゴなのかもしれない。それがいくら誰かのためを思ってのことだったとしても。二幕から四幕で葉月の臓器を受け取ることとなる人物の周りには様々な望みという名のエゴが渦巻いているように思った。さなえを懸命に看病する母親、昴の兄とその友人の記者、姿を消した森尾の妻。それぞれが誰かのためを思って自分を犠牲にするありかたを選んだばかりに、その誰かが苦しむやりきれなさが一貫して漂っていた。つまり、葉月にも、それを見守る芥、葉月の父、そして昴自身にもそれはあった。

 

後味がよいとは言わないけれど、独自の世界観からしか得られない胸の詰まりがあったように思う。淡々と語られる生と死の瀬戸際、自己犠牲とエゴの狭間が、「それでも二項対立で物を語るのか」と語りかけてくる。

 

 

 

医学的に脳死と判定されながら、月明かりの夜に限り、特殊な装置を使って言葉を話すことのできる少女・葉月。生きることも死ぬこともできない、残酷すぎる運命に囚われた彼女が望んだのは、自らの臓器を、移植を必要としている人々に分け与えることだった――。

透明感あふれる筆致で生と死の狭間を描いた、ファンタジックな寓話ミステリ。

 

読書感想文 あん/ドリアン助川

「汚れ」と「穢れ」の違いをコップに入れた尿に例えた話を思い出した。

コップに入った尿が飲めるかと言われたら飲めない。「汚れ」ているから。

では、その尿を捨てて、コップを完璧に洗って殺菌消毒すればそこに水を入れて飲むことができるかというと、やはり躊躇してしまう。これが「穢れ」である。

 

ぼんやりと映画化していることは知っていた。樹木希林の晩年の出演作。あらすじを読んで、このおばあさんの役を演じている樹木希林というのがありありと浮かんできた。

真意の読めない訳ありげな老婆の役で他に変わる人はいないだろう。

 

根底に重たいテーマが横たわる一方で、文章自体は柔らかく、桜の花びらとあんこの甘い香りがするようだった。メッセージが確かにある一方で、押しつけがましくない。

「こうしたらいいじゃありませんか。ま、そうしなくたっていいんですけどね。」

そんな雰囲気だった。

印象的だったのは終盤の森山さんの言葉

「ああ、またやっていると思ったの。」

「トクちゃん、気に入った人が現れると、あれをやってしまうの。」

主人公たちへ向けられた言葉は、徳江の長い人生経験を裏付けとしたもので、過去に囚われる苦しさ、未来への漠然とした不安を抱く下の世代へ強いメッセージ性を持っている。そこに、徳江と同じような経験をしてきた森山さんからこの言葉が添えられることで、メッセージに共感できなかった人にも寄り添う、過度の一般化をし過ぎない物語にまとまっているように思った。

それは作品の終わり方にも表れているように感じた。これをハッピーエンドと言ってしまうのは少しもったいないように思う。

何かの予感はあるが、それが前向きに進んでいくか、ポジティブな結果をもたらすかはわからない。あまり言うと物語の核心に触れてしまうので避けた方がよいのかもしれないけれど、そういうある意味尻切れトンボのような形で終わってしまう。余韻、ということでもないように思った。

これから主人公が、ワカナちゃんが、徳江の言葉から何か行動を起こすのか、それによって二人に幸せな結果が訪れるのかどうかはわからない。けれどそれこそが正解はひとつではないどころか、なくったって構わないという物語全編に通ずる姿勢だと思う。

 

冒頭の話に戻ると、「穢れ」はつまり周囲の気持ちの問題である。「汚れ」は取り除くことができても、「穢れ」はそれを見る周りの意識である以上、簡単に解決するものではない。だからこそこういう終わり方をしたのかもしれないと思った。

実際、徳江自身にも主人公たちと関わったことによる「救い」はあったのだろうかと考えると、そうとは言い切れないと思う。どら春のオーナーがその役を担う「周りの人」の変化は描かれていないし、なかったと言ってもいいと思う。

しかしその事実に対面してこそ、徳江の言葉が深みを増すのかもしれない。冷たくあり続ける世間の中で、どう生きるか。ままならない世を生きる以上、どうあってもそれが自分自身であり、それこそが尊いことだと。

 

話は変わって、お菓子作りには普段の料理とは違った色合いがあると思っている。

ハレとケで言えば、お菓子作りはどちらかと言えばハレの作業ではないか。工程も洗い物も晩ご飯のおかずを作るよりもずっと多くて、一つでも順番や重さを間違えると膨らまなかったり固まらなかったりする。正確な手順と分量で、清潔な器具に丁寧にクッキングシートを敷いて、混ぜる道具を泡だて器からゴムベラに持ち替えながら、長い焼き時間を経て完成する。

本作を読んだあとに、思い立ってケーキを焼いてみた。スフレのようなカステラのような生地をパウンド型に入れて焼く。くちどけのいいふわふわの生地を作るために必要なのは、しっかり固く泡立てたメレンゲだ。慎重により分けた白身(少しでも黄身や水分が入ると泡立たない)を冷蔵庫で直前まで冷やして、砂糖を加えて一気に泡立てる。砂糖は2~3回に分けて加えた方が泡立ちやすいが、一気に加えた方がきめの細かいメレンゲになるのだという。一人暮らしの家に電動のホイッパーなんてなく、100均の泡だて器で肩、背中、腰すべて痛くなるまでカシャカシャ泡立てる。角が立つようになったら、その3分の1を他の材料を混ぜ合わせた黄色い生地に加えてなじませる。今度は、その生地を残りのメレンゲ側のボウルに入れて泡がつぶれてしまわないように混ぜる。蒸し焼きにするオーブンは10分に1回扉を開けて蒸気を逃がしてやって45分……

「ネガティブな思考を打ち消すものは、ポジティブではなく没頭だ。」という言葉を思い出す。ちょうどうんざりするようなことが続いていた梅雨の日の数時間、世界に自分と生地だけになって向き合っていた。油断すると思い出してしまう、傷ついたこと、腹が立ったこと、言い返すことを諦めてしまった自分のやるせなさと非のある部分。そういうものは全てどこかに行っていて、考える暇もなく目の前の卵2個分の白身が少しでも固くなるように手を動かし続けていた。おまけにオーブンから取り出したふかふかのケーキを食べることにも集中しないといけないとなると、当分は再度考える暇もなさそうである。

 それぞれに何かを背負う登場人物たちが、せっせと丹精をこめてお菓子を作っていったのは、こういう理由もあるのかもしれないと思った。

卵をたっぷり入れるお菓子にはバニラエッセンスを入れない方が好きだ。焼きたてのときはメレンゲの味が強くて、冷めて落ち着くと濃い黄身の匂いがする。

きっと電動のホイッパーがあった方がもっと色々と作れるのだろうけど、しばらくはマニュアル仕様でガシャガシャやろうと思う。

 

 

町の小さなどら焼き店に働き口を求めてやってきたのは、徳江という名の高齢の女性だった。徳江のつくる「あん」は評判になり、店は繁盛するのだが……。壮絶な人生を経てきた徳江が、未来ある者たちに伝えようとした「生きる意味」とはなにか。深い余韻が残る、現代の名作。

 

読書感想文 カラフル/森絵都

小学生か中学生の時に一度読んだ本を、この年になってもう一度手に取った。

 

自粛生活も長くなると、だんだんやることがなくなって読書にいきつく人も多いらしい。私もその一人で、会社の同期と昔読んだ本の話になった。東野圭吾湊かなえ原田マハ……そんな中である児童書を挙げると読んだことがないという。じゃあこれは?これは?聞くと、タイトルや作者は知っているけれど……と芳しくない反応。その中の一冊が森絵都のカラフルだった。

早速近所の本屋へ探しに行った。そうそうこの表紙、単行本と同じ黄色に懐かしくなる。帯には「高校生が選んだ読みたい文庫ナンバーワン」……もうすぐ27歳になるけれど読んでいいものだろうか、迷ったけれど結局買うことにした。

正直に言うと、話のオチは覚えていた。15年近く前に読んだ時に一番感情を揺さぶられたのがそのシーンだったから。あの頃はなんてことだと胸が高鳴った展開も、今になれば読み始めの時点で想像がつく安易なものかもしれない。だがそれ以外の部分の記憶は曖昧で、ただはじめて読んだ時の面白さが鮮烈だったので、この感覚を他の人にも味わってもらうための貸し出し用にすればいいか、とそんな気持ちで家に連れて帰った。

 

そうだった、そうだった。妙に人間臭い天使に導かれて物語は始まる。

 

「生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが、天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。」

 

そうしてまんまとすべり込んだ魂が中学3年生の小林真として生活を始める。輪廻のサイクルに戻るための一時的なホームステイ、どうせ一時借りているだけの他人の人生、それならばと割り切ってしたいように我が世を謳歌しようとするも、自殺した人間の体に入っているのだから、周囲の人間や物事がそれなりの事情を抱えているのは当然のこと。全てが思い通りにいくわけもなく……というのがおおよそだ。

 

ここまでははっきりと記憶にあった。

でも、今回私を突き刺したのは、記憶からすっぽりと抜け落ちていた主人公と父親との会話だった。

平凡ながら家族のために働くサラリーマンの父を尊敬していた。それが崩れ去り、嫌悪感を抱くような出来事があった。しかし川辺で話をしていくうちに、父の思いに触れ考えに触れる。小林真の記憶が知らなかったことがあまりにも多いと気づき、自殺した真に「もったいないことをしたんじゃないか?」と問いかける。

 

そういえば、カラフルといいながらこの本が黄色い理由は何だろうか。単行本も文庫本も、細かいイラストの違いはあれど同じ黄色一色だから何か理由があるに違いないと思い少し考えてみた。

作中で主人公が描く絵。自殺する前の真が描いていたのと同じ青い絵の具で塗り進めていく。抱えていた色々が積み重なって、死を選ぶ前の真が没頭していたのがこの絵を描くこと。耐えがたい現実から逃れるための色が青なのだとすれば、表紙の黄色はその反対色であり現実そのものかもしれない。

しかしこの本の表題は「カラフル」なのだ。美しい青だけの理想はないかもしれないけれど、つらい黄色だけが現実でもない。そのことは物語の随所で示されていくが、最も強く感じ取れたのが、先ほどの父親との会話だった。

 

自分がそうだからそう思うのだが、若い人間にはもっと長い時間を生きてきた人よりも物事は単純化されて見えていると思う。喜ばしいことも打ちひしがれることも、より強いコントラストで視界に飛び込んでくる。だから絶望するし、身を守るために自分の殻に閉じこもる。

だが、大人になるにつれてそうもいかなくなる。父親はそのことの象徴かもしれない。家族がいて明日も生きていかなければならない、今さらこのコースから降りるわけにはいかない、そんな時どうするのか。

「我慢は難しいけれど、辛抱ならできるかもしれない。辛い気持ちを持ったまま、それをぎゅっと抱きしめることならできるかもしれない。」ウイルスに今までの生活を変えることを余儀なくされたこの時期に、テレビで聞いた言葉を思い出す。それができるのは、世界がつらい黄色だけではないと知っているからではないだろうか。世界は色で溢れかえっていて、目まぐるしくせわしない。今たまたま自分の胸元に飛び込んできたのが黄色であっただけで、ふと周りを見渡せば様々な色が風景を塗っている。綺麗な色ばかりではないし、原色だけで割り切れないぼんやりした色もたくさんある。その一つ一つを知って、そんな色もあるのだと認めて受け入れていくために今は黄色と一緒に生きているのかもしれない。

 

そしてカラフルであるのは、世界という漠然としたものだけではない。周りの人々についてつい「あいつはこういつやつだ」と決めつけてはいないだろうか?相手も、一色だけののっぺりとした存在ではなく、様々な側面を持って様々な色を抱きしめて、それを見せたり見せなかったりしながら生きている。それが特に感じられるのは主人公の兄の存在だったと思う。

 

父、母、兄、そして同級生たちとそれぞれの見えているものの範囲や彩度が様々であることが、この物語の魅力だと思う。

 

話は変わるがもう一つ魅力的だと思ったのは、五感の境界線が曖昧な表現だった。味は舌だけで、匂いは鼻だけで感じるものではないし、温度や湿度は何らかの情景や感情を肌に乗せてくると思う。それが感じられるところが読んでいて心地よかった。

 

余談だが、感想文を書くにあたり調べていたら実写映画の主人公役が田中聖だったと知った。コンプレックスだらけで無口な悩み多き青年……むむむと思ったけれども、映像を見てみると、外見と中身の二面性を醸し出すアンニュイな視線がとてもしっくりきた。悲し気ではかない表情が妙に似合う顔立ち。田中家の遺伝子つよい。

 

 

生前の罪により、輪廻のサイクルから外されたぼくの魂。だが天使業界の抽選にあたり、再挑戦のチャンスを得た。自殺を図った少年、真の体にホームステイし、自分の罪を思い出さなければならないのだ。真として過ごすうち、ぼくは人の欠点や美点が見えてくるようになるのだが……。