読書感想文 日日是好日/森下典子

 

別のアカウントで、細々とオタクとしての想いを綴っている。

一口にオタクと言いつつも様々な感情で様々な子を応援しているが、その中の一人のお誕生日に書いたブログで「彼にこの本を紹介するなら。」という体で書いたことがある。

 

彼は少し前から読書をするようになったという話をよくしてくれるようになって(しかもそのきっかけは村上くん!)、「どんな本が好き?」と聞いてくれてたブログを見て、いつかこんな本がよかったよ、おすすめだよ、というお手紙を書けたらいいなと思っていた。

 

 

そんな訳で選んだ「日日是好日」は、森下典子さんが20歳のときから続けてきた「お茶」を通じて見えてきた世界の捉え方の変化が描かれたエッセイだ。

 

本を読むのは「役に立つ」から、ダンスも「必要だった」から、やると決めたお笑いポジションも「グループにいない」から、と彼は知れば知るほど合理主義で機能主義な人のようで、別に役に立つとも思えない、自分とは縁遠いお茶の世界の本なんて興味がないかもしれない。いや、たぶんない。そう思いつつも私がこの本を差し出すことにしたのは、何かに一意専心したことのある人であれば、それがお茶でなくともきっと何か感じることのある一冊だと思ったから、そして感じるところはきっと人それぞれ違っていて、それこそがその人を形成する大切な何かであるだろうと思ったから。

 

2019年の8月8日、私は東京ドームにいたものの、ただぼんやりと起きる現実を目の当たりにしていただけだったし(何ならデビューできた子たちはよかったねえというくらいしか思ってなかったはず)、SNSなどで目に触れる「その後のコンサートでみんなで決意を新たにできて前に向かうことができた」ということも経験していなければ、4月の大阪城ホールが初めての現場の予定だったから、まだちゃんとの現場にも入れていない(2020年10月の舞台が初の現場だ!!)。この1年すら、せいぜい雑誌の記事を読むくらいの知識しかない。配信ライブで彼が流した涙の理由もきっと1%も理解はできていない。それにそもそも、掛け持ちのオタクごときが持っている感情なんて本当にちっぽけなものだと思う。

だから本当にこんなことを書くのはおこがましいのだけれど、彼や彼のグループには「一意専心」という言葉がすごく似合う、と思っている。動画や配信から感じただけのことでどこまで言っていいのかわからないけれど、明確な強みを持ってそれを他を寄せ付けないところまで高めている。もちろん途方もない練習量をこなしていることは前提として、きっとこれは練習で体得できることの先にある「心を入れた」ことで完成する何かなのではないかと感じた。だからきっと、何か私では到達しえないような気づきが、本の中にあるのではないかなと思っている。

 

お茶は何年やっても正解がわからない、疑問を解決する術も示されていない、自分よりずっと向いていると思う人がたくさんいて、時に自分の人生にとってどれほどの価値があるものかと問いたくなって、いっそやめてしまう方が楽かも知れないと思うけれど、しぶとく続けているうちにある日ふっと視界が開けるときがある、そんなものだそうだ。

 

これまでの人生のうち決して短くはないアイドル活動の中で、そういう気持ちになることがあったのかどうか私にはわからない(そういうところは見せずにいてくれるような気もするし)。が、何かに集中して心をこめることを続けるほど、そういった感情に近づくことが増えるのは自然のことではないかと思う。

一方で、そうしたものだからこそ、それそのものとして機能するというよりも、自分の人生の様々な局面に寄り添い、無数の気づきを産んでくれるものになるんだとか。茶室では得体の知れないままもやもやと抱えていた感情が、生活の中でふと「こういうことだったのか!」と腹落ちすることがあって、それが日々の中にある喜びや尊さを掬い取る助けになるんだそう。それによって、毎日が素晴らしい日だと思える、それが「日日是好日」だと言う。もともとは禅の教えの中から生まれた言葉らしく、何かにひたすらに集中するという意味で、彼の日々の活動とも共通しているのかもしれない。

 

話は少し変わって、彼のブログを読み始めたとき、私は毎月首をかしげていた。すごくすごく不思議な文章を書く人だと思った。色んな話をしてくれるけれど、どこか核心に迫ることには触れられないような気がしていて、言葉を選ばない言い方をすると「この人は何が言いたかったの?」と思ったりもした。

何を言いたいのか掴みかねながらも、過去の残っている記事にさかのぼって順番に読み込んで、その中で気が付いたのは彼の優しさは何一つ押し付けることがないところにあるのではないか、ということ。だから本当に言いたいことが(少なくとも私には)汲み取りづらくて、「まあ~なんだけどね!」と煙に巻くのをもどかしく感じていたけれど、それもきっとちょっとした自虐や冗談に悲しい気持ちになってしまう人を置き去りにしないためなのかな、と。

たぶん後輩に何かを教えたり相談に乗ったりするときもそうなんじゃないかと勝手に想像している。配信ライブでバックについてくれた子たちとの関係性はすごく素敵だった。「後輩たちが何かを掴むことができたら」という彼の気持ちはきっとたくさん伝わっていて、ただきっとその気持ちを強く押し付けることはせずに「少し頑張ればできるようになること」をたくさん教えてあげたんだということが強く伝わってきた。その「形」の中には、一意専心することでいつか後輩自身のオリジナルの「魂」のようなものがこもるんじゃないかと、本当に本当に勝手ながら思っている。

 

はじめの方に、「彼は知れば知るほど合理主義で機能主義な人だと思う」と書いた。自分自身で必要なものや役に立つものを選び取ることができる賢明さはすごく素敵だと思う一方で、少しだけ大丈夫かな?しんどくないかな?と思ってしまう時がある。その目線はきっと誰よりも自分自身に対して厳しく向けられるものだと思うから。だけど、きっと彼が意識していないような(と思うことは傲慢かもしれないけれど)無意識の表情や行動に私達ははっとさせられるし、ただただ優しくある姿に自分も優しくあろうと気付かされるときがたくさんある。いや、きっと優しいのも、優しくあることが最も合理的だからなのかもしれないけれど、その合理性を超えたこちらの心を温かくする力があると思っている。戸惑ったり、ちょっとすべって落ち込んだり、驚くほど饒舌に構成や振付について話をしてくれたり、そういう今をありのままかつ全力で生きている姿に笑顔をもらったり、少しうるっときたり。

私自身はこれと言って何かに心を注いだ経験なんてほとんどないけれど、こうやって掴みどころがなくて、それでも素敵だと思える彼を、言葉で表すことができたのが、一つの「お茶」のようなものと向き合う体験だったのかもしれない。本当にありがとう。

 

 

 

お茶を習い始めて二十五年。就職につまずき、いつも不安で自分の居場所を探し続けた日々。失恋、父の死という悲しみのなかで、気がつけば、そばに「お茶」があった。がんじがらめの決まりごとの向こうに、やがて見えてきた自由。「ここにいるだけでよい」という心の安息。雨が匂う、雨の一粒一粒が聴こえる……季節を五感で味わう歓びとともに、「いま、生きている!」その感動を鮮やかに綴る。